志摩国一の宮「伊射波(いさわ)神社」は、あの岬の上に鎮座します。。
冒頭写真は一の鳥居の少し手前、岬の付け根にあたる位置の海岸です。。
ここまで結構歩いたような気がします
冒頭写真を撮影した位置から海岸沿いに少し歩けば、
海に面した一の鳥居が現れます。。
時間的都合もありましたが、
ここまで歩いて来て疲れちゃいました
というわけで、
階段から社殿の方に向かって手を合わせ、振り返って一の鳥居を見下ろす。。
ちなみに、
あの海の向こう約1.5km先に「贄(にえ)遺跡」というとても貴重な遺跡が在りましてね、下の写真で真ん中辺りの位置なのですが、こちらから見ると丘陵の裏側に位置していて遺跡地は見えません(現地も何も無いが)。
伊射波神社に例えれば一の鳥居の位置が贄遺跡の位置に類似しています。。
で、贄遺跡とはどんな遺跡かと申しますと、
調査報告書が未公開なので詳しいことは分からないのですが、縄文~平安までの複合遺跡らしく(連続しているのかどうかは断定できない)、特に奈良・平安の遺物が注目されています。。
この遺跡について、
鳥羽市HPの該当ページをリンクさせていただきますのでご参照くださいませ。。
で、肝心な伊射波神社につきましては、
こちらのサイトをご参照願います
御祭神は複数となっていますが、
「いさわ」神社ですから、「伊佐波登波(いさわとみ)命」という御祭神が重要なのでしょう。。
それはもう一つの志摩国一宮「伊雑宮」も同様です
「とみ」と付いてますから、出雲系の一族ですね。。
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伊雑宮
伊射波神社が鎮座する鳥羽市から南下して志摩市に入り、
的矢湾大橋から的矢湾を眺める。。
最も内陸奥深くまで入り込むのが的矢湾でして、川のように蛇行する湾の最奥部は湖のように幅を広げ、「伊雑(いざわ)ノ浦」と名称を変えます。。
この奥深い入江が、
伊雑宮がそこに鎮座する大きな要因であるのでしょうね。。
(水産・水運の両面から考慮して)
また、
伊雑宮が鎮座する扇状地北西の峠道を越えれば伊勢神宮内宮の側に出ますから、そうした伊勢神宮との位置関係も大きな意味がありそうですね。。
(入江を利用した水運と陸路との接点としての交通的重要性を考慮して)
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磯部の御神田
伊雑ノ浦から野川を1kmほど遡った微高地に伊雑宮が鎮座し、
その東側一帯の扇状地には水田が広がります。。
上の写真に見える広い水田の内、
伊雑宮境内南側の一角は伊雑宮の御領田となっていまして、御領田には鳥居が在ります。。
で、この御領田は、
「磯部の御神田(おみた)」とも呼ばれています。。
「皇大神宮(伊勢神宮)」ご鎮座の後、「御贄地(皇大神宮に奉る御供え物を採る所)」を定めるために「倭姫命(第11代垂仁天皇皇女)」が志摩国を巡行された後、伊佐波登美命が豊かな稲を奉り、この地に神殿を造営した{倭姫命世紀}。
という故事にちなんだ神田配置かな??
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伊雑宮境内
では、伊雑宮境内へと参りましょう。。鳥居をくぐって直ぐ右側に勾玉池。。
名称どおり勾玉の形をした池です。。
所々大木が見える照葉樹林の中の参道を歩きます。。
東西向きの参道は思ったより短く、
ほどなく社殿群が参道沿いに並ぶ姿が目の前に現れます。。上の写真が忌火屋敷で下の写真が祓所です。。
さらに奥、上の写真が古殿地で下の写真(2枚)が伊雑宮社殿です。。
社殿の前に立ちましたら、参拝
社殿は南向きであり、
この真南の位置に磯部の御神田が在ります。。
ところで、
社伝の造りもそうですが、古殿地が在るところなんかも伊勢神宮と同じですね。。
勿論、
古殿地の存在は式年造営が行われる(20年に一度)ことを示すものでして、次回の式年造営の際には社殿が現在の古殿地に移り、現社殿地が古殿地となります。。
その他、
神社についての詳しいお話は、やはり公式HPが一番ですね
ですので、
伊勢神宮公式HP中にリンクされた「伊雑宮パンフレット」と、別宮に関するページをリンクさせていただきます。。
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上ノ郷石神
伊雑宮境外北側に興味深い史跡が二か所。。
倭姫命旧跡地は伊佐波登美命鎮座地のすぐ側にあるらしいのですが、時間が無いのでこちらの見学は断念し、そこよりも北西奥に在る「上之郷石神」のみ見学することにしました。。
伊雑宮北側の低丘陵へと続く緩い登り坂を歩き、
その場所へ。。道路沿いの鳥居をくぐって少し下れば、
上之郷の石神と呼ばれるその配石遺構らしきものが在ります。。
伊雑宮奉斎一族の墓所でしょうかね??
後で地図を見て分かりましたが、
この配石は伊雑宮社殿の真北に位置しています。。
ですから、
伊雑宮社殿を拝する時、同時にこの石神も拝していることになりますね。。
なかなか興味深い遺構です
ただし、
このような配石が全て縄文や弥生といったとても古い時代のものと解釈するのは危険です。
類似する遺構には中世に設けられたものなんかもありますし・・・
また、志摩国に小さいながらも古墳を造れるような有力者が現れるのも5世紀後半以降であり(伊勢神宮界隈も同様)、皇女の補佐をするような有力者の出現もそれ以降と解釈すべきでしょう。
つまりそれは、
伊勢神宮やその別宮である当社の創建時期をも暗示しています。。
{私見:垂仁天皇御代、その皇女・倭姫命によって伊勢祭祀の原型が行われ始めたという記紀の記述は否定しないが(実年代は検証が必要だが)、同書にもその場所が点々と移動したと書かれているとおり、その移動は倭姫命一代の内に行われた事ではなく(記紀では倭姫一代の事績として記されるが)、長い年月をかけて最終的に伊勢に落ち着いたのであろう(5世紀後半~6世紀代?)と私は推察する}
しかし、
創建時期うんぬんといった話はともかく、最終的に伊勢神宮は皇祖神の鎮まる処と認識されたのは事実であり、その創建に伊雑宮奉斎一族(伊佐波登波命後裔?)が大きく関わっていたのは確かなのでしょう。。
それが実際にはいつからなのか?
という問題がありますが・・・
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<参考>
・伊勢神宮公式HP
・現地説明板
・その他、本文中に記載またはリンク
以上、三重県鳥羽市・志摩市、
伊射波神社と伊雑宮でした
*当記事に掲載の写真は、
2023年6月初旬に撮影したものです。
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