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歴史的映えスポット(または珍風景)第2弾
場所は前回と同じく島根県松江市でして、旧鹿島町エリアに所在する「講部岩屋(こうぶいわや)古墳」です。。
古墳についての難しい話は後としまして、
先ずはその映えっぷりをご覧になってくださいませ。。
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その姿
いかがです??この哀愁漂う後姿。。
少し寂しそうにも見えますが、正面から見ますと、
中から出雲神話に登場する神様がひょっこりと顔を出しそうな雰囲気
出雲へようこそ、みたいな
その中は、、
見事に平面加工された切石一枚岩によって構成される各壁。。
これが出雲(かつての出雲国の範囲)特有の石棺式石室ってやつですよ
石室の中から外を見る。。
出雲ではこのように石棺式石室が露出した古墳が結構在るのですが、
その中でもこの古墳は周囲の景観も合わせてとても良い雰囲気をかもし出していると思うのです。。
ゆえに、映えスポットとして紹介させていただきました。。
このアングルも素敵です
古代出雲と近世出雲の特徴が重なる景観
少し離れて散在する石材も、
古墳を後に、振り返ると、
上の写真の高台(上の写真で住宅左側の坂道を上った先)に、
講部岩屋古墳は佇みます。。
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古墳の詳細
ここからは後回しにしていたちょっと難しい話ですよ。。
といっても、不明な点も多いので、今回は簡単に
写真をご覧のとおり、
この古墳は墳丘を失っており、
元々どんな形だったのかは分かりません。
形は全く不明ですが、
専門家による地形の調査により、
だいたい10mくらいの規模(円形なら径10m・方形なら一辺10m)の古墳であったと考えられています。。
この古墳が造られた年代は古墳時代後期後半(7世紀代)です。。
この位置は、丘陵山腹斜面の標高28mの地点でして、
周辺を広く見渡せる位置であり、この盆地と北側の沿岸部とを結ぶ小さな峠の入口近くとなります。。
盆地の農業生産と、沿岸部の水産・海運と、両方に関与した実力者のお墓かもしれませんね。。
さて、残存した石室についてですが、
専門用語が出てきますので、下の図を参考にしていただけたら幸いです。。
この古墳の石室は、
出雲独特の石棺式石室といわれるものですが、
羨道(通路)は破壊が進んで片側の壁だけが残され、
周囲に散在する石材は羨道の一部だったものです。
しっかりと残っているのは玄室(遺体を安置する部屋)部分です。。
玄室の規模は、
幅1.35m・奥行き1.9m・高さ1.5mです。。
あれは元々床に敷かれていたものでして(床石)、
同じ大きさのものがもう一枚あったはずです。。
壁と天井はそれぞれ凝灰岩の一枚石を組み合わせていまして、
壁は平面加工された切石、天井は外側はかまぼこ形に・内面は屋根形に加工されています。。
玄室の入口である玄門ですが、
両側に袖石・上にまぐさ石という構成の両袖型でして、
高さは0.98m、幅は上端で0.64m・下端で0.69mです。。
玄門は南西(真南から西へ24°)に向けて開いています。。
羨道の規模は、幅1.3m、
長さは専門家の推定(残存する石材の様子から)で約1.9m、
高さは不明です。。
この古墳から出土した遺物ですが、
羨道から約2m離れ場所から、土器(須恵器)が1点出土しています。。
この土器が古墳の年代を推定する材料となりました。。
細かい部分ですが、
壁石・床石・玄門袖石・玄門かまち石などを組み合わせる部分は、
どちらかに刳り込みを作ってはめ込むように組み合わされています。。
周辺についてですが、
この辺りは古墳が多いところでして、
この古墳が所在する丘陵斜面と対面する向こう側の丘陵に、
古墳時代後期の古墳がいくつか確認されています。。
ここより北側の御津海岸沿岸部でも多くの古墳が確認されています。。
また、
少し南側にはそれらより古い古墳も多く分布していまして、
代表的な例とし「名分丸山古墳群」などが在ります。。
一つ重要な内容として、
この盆地の中心には出雲二ノ宮「佐太神社」が鎮座します。。
詳細は以上です。
<参考>
・講部地区遺跡分布調査報告書2(1988年3月/鹿島町教育委員会)
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以上、島根県松江市、
歴史的映えスポット、講部岩屋古墳でした
*当記事に掲載の写真は、
2022年10月中旬に撮影したものです。
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