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 天竜川左岸、駒ヶ根市東伊那地区の高台、
復元された竪穴式住居が一軒。。
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 背後に高鳥谷山(下の写真中央)を望むこの場所、
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東伊那遺跡群の中核をなす「狐久保遺跡」。。
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 この説明板と復元住居は、
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駒ヶ根市立東中学校の入口に在ります。


  東伊那遺跡群は弥生時代後期の大遺跡地であり、
ここに集落を営んだ弥生人達と駒ヶ根に伝わるいくつかの伝承、
そして諏訪地方との関わりなど、それらを検証するためにこの記事を書いてみました。。

 先ずは位置を把握していただくために、
下図をご覧になっていただきたい。
東伊那加工
{駒ヶ根市東伊那地区遺跡分布図:国土地理院地図を利用加工して表示。
*図に表記した位置に関しましては、おおよそのものであり、
正確にその場所を表したとはいえないということをご了承くださいませ}

 上記図中、最も南の紫色の楕円で囲んだ地区ですが、縄文時代中期の大遺跡地です。
ここより北側では弥生時代後期の遺跡が多いのですが、この地区はそれとは逆に縄文後期以降に遺跡数は減少し、弥生時代以降もそれは過小となります。
 そのような理由もあり、この地区は当記事の内容では対象外とさせていただきました。
ですが、縄文中期に関しては素晴らしい遺構・遺物が豊富に発見されたエリアであることをご記憶いただければ幸いです。


 さて、東伊那地区における弥生は北側の「青木北遺跡」から始まりますが、
先ずはその遺跡について縄文時代後期の内容から話を始めさせていただきます。。
それはこの地区の古代を語るうえで外すことはできない遺構だと思うからです。
 

 この雄大な風景と悠久の人の営みが生みだした神々の姿を、
少しでも感じていただけたなら幸いに思います。。


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 青木北遺跡 ~高鳥谷神社の原点か~
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その遺跡地は高鳥谷神社一の鳥居から高鳥谷山へ向かい、
高鳥谷二の鳥居
二の鳥居との中間点に所在します。。

 まるで、この二つの鳥居は、
この遺跡の存在を示すかのごとき在るようにも思えます

 私は、高鳥谷神社の原点は、
この遺跡に求めることができると考えます。→{高鳥谷神社の記事}

 その遺跡は「青木北遺跡」と名付けられました。
南信の、いや、東日本を代表すべき素晴らしい遺跡です。

 
 青木北遺跡(以下文中、当遺跡と表記)は縄文時代後期を中心とする遺跡ですが、
弥生中期末~後期初頭の遺構・遺物が若干確認されています。
 それは東伊那地区における「本格的弥生文化」の第一歩だと私は考えます。
東伊那地区に入植した最初の「本格的弥生人」は、先ずはこの場所に敬意を表したのでしょう。
 
 「本格的弥生文化」という言葉を使わせていただきましたが(考古的にその言葉が使われているわけではない)、私は、条痕文系土器の流入を信州における本格的な弥生文化の始まりとは考えてはいません。
 信州における「本格的弥生文化」とは、
南北共に櫛描文系土器の出現をもって始まり、そして定着したと私は解釈しております。

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 環状配石
青木北(調査報告書)
{写真:青木北遺跡、配石址群立石復元状態。
・「1986年3月発行・駒ヶ根市教育委員会発掘調査報告第20集・青木北遺跡」に
掲載された画像を借用。
*この写真に写る立石等は、調査時に復元して撮影されたもので、
現在、この遺跡地に、それらを復元したもの等はありません}


 話は縄文時代後期となります。
当遺跡について特筆すべきは、なんといっても大規模な配石遺構といえます(上の写真が一例)。

 大小の石礫が敷き詰められた円形・楕円形・方形などの小遺構、
{*個々の大きさは、小さいもので径30cmほど、大きいもので径2.8mほど}
それが環状に並び、直系約30mの円形を成すと推定されています。
{*調査は遺跡地全体には及んでいない}
その中の一部には、上の写真のような立石(根詰め石も検出)も存在したようです。
{*配石遺構として把握されたものは北部分で37基、南部分で13基}

 さらに、環状配石遺構群の外側には、
土抗・小竪穴・柱穴跡が、これも円形に並んで配置されているようでして、
それも含めれば、直径60mの円形を成す遺跡群と推定されています。

 このような遺跡は何のために設けられたものなのか?という問題ですが、
それは他の類似遺構と同様に、明確な回答にはいたりません。
 ただ、
祭祀遺構ということだけは確かであるといえます。
{*他の類似遺構では、集団墓である可能性も推定されている}

 
 当遺跡の姿(縄文後期の)を分りやすくする例として
秋田県の「大湯環状列石」をあげておきます。
 この遺跡は「野中堂」と「万座」という二つの環状列石から成り、
野中堂環状列石が最大径44m、万座環状列石が最大系52m、という規模です。
縄文後期のストーンサークルとしては国内最大級といわれています。

 大湯環状列石と当遺跡とは、遺物の内容に関しては相違点もあり、土器の形式も異なります。
しかし、先述したとおり遺構としては類似要素が多く、文化様式は異なるが思想は類似するという、縄文後期社会のあり方を考察する上で恰好な資料ではないかと思えます。

 大湯環状列石を例としたついでに述べさせていただきますと、
大湯環状列石には、その直ぐ側に在る「黒又山」と呼ばれるピラミッド形の独立峰を崇拝した気配があります。
 これと同じように、当遺跡では「高鳥谷山」を崇拝したであろうと私は思います。
ただし、当遺跡で高鳥谷山を崇拝したであろうとする私見を証明する要素は、その位置以外には見当たらないというのが正直なところです。

 もう一つ、大湯環状列石では、夏至の日の入り・冬至の日の出を意識した気配があり、
当遺跡にもそのような傾向がないかどうか、再検討する際には注意が必要と思われます。

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 遺物について・土器編1

 当遺跡から出土した遺物について記しておきたい。
先ずは土器について、99%は縄文時代後期初頭から中葉のものです。
 その内訳は、
・称名寺式→約6%
・堀之内1~2式→約47%
・加曽利B1→約33%
・加曽利B2→約1%
・東海、関西、北陸系→約13%
と記録されています(発掘調査報告書)。

 尚、上記土器類の出土は、配石遺構内の物もあれば、その周囲、または土抗等から出土した物もあります。

 上記土器の内訳を見れば、南関東系の土器が大半を占めており、その方面との交流などが推測できそうです。
 ただし、この内容はこの時期の中南信全域でほぼ変わらないと思われ、広域で見た平均的な土器の内容と思えます。

 当遺跡の土器に関する特記事項として(調査報告書)、下北原遺跡(神奈川県)で出土した加曽利B1式の精製深鉢形土器と、当遺跡出土の物が酷似するという点があげられています。
 下北原遺跡も当遺跡と類似する部分がある遺跡であり、この事実を考慮するならば、南関東とこの地区との、単なる交流という解釈では済まされない何かを感じさせます。

 もう一つ興味深い内容が、東海・関西・北陸系の土器が多い事実です。
まるで、晩期の御社宮司遺跡(茅野市)の有り方を髣髴させる。
ここでいう両遺跡とも、当該期の住居址が極めて少ない(又は無い)。

 当遺跡の配石遺構は縄文後期のものだが、その直ぐ西側には、晩期の配石遺構も在る(上塩田遺跡)。
 その上塩田遺跡で主となる晩期の土器は氷式であり(駒ヶ根市全域で当該期は同様)、
これは御社宮司遺跡も同様です。

 また、当遺跡における縄文後期最後の頃に現れるのが、
関西・東海北陸等の土器であり、御社宮司遺跡における晩期最初の頃に持ち込まれたのが、
東海北陸・北信・東北系の土器です。

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 余談・歴史は繰り返す?

 ここで一つ、私の想像を含めた余談を許していただきたい。
{*当項中、この色の文章は、私の想像を含まない}

 当遺跡の祭祀集団は、
晩期になって茅野へ移住したのではないだろうか?

 要するに私がいいたいことは、
当遺跡の祭祀集団は、晩期、その主流が茅野へ移住し(御社宮司遺跡)、
少数の残留派が上塩田遺跡を残した、というものです。

 また、天竜川右岸の荒神沢遺跡(縄文晩期)も配石を伴う遺跡であり、当遺跡から至近距離にあるという点も考慮すれば、この遺跡も青木北からの移転先として考えられそうです。
 荒神沢では、木曽駒ケ岳を拝する祭祀が予想され(私見ではあるが)、
あるいは、大御食神社につながる内容もあるのではないかと推測しております。。


 ふと、さらに大昔の出来事が思い出される。
縄文前期初頭にこの近辺に現れた東海からの移住者達(中越人)は、その場所を捨てて(?)諏訪盆地に進出した。{参考・「7千年前の温暖化」}
 やがては諏訪盆地からも姿を消した。その跡は、径120mという国内最古にして最大のストーンサークルとなった(諏訪郡原村・阿久遺跡)
 そこでは「蓼科山(下の写真)」を拝する祭祀が行われていたと推定されている。
上川から蓼科山
 
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 遺物について・土器編2

 当遺跡の出土土器は、先述したとおり99%が縄文後期のものです。
残りの1%ですが、縄文早期・前期・中期、弥生中期末~後期初頭、平安、室町期、と、かなり複合しています。
 それが少数であることは、
この遺跡の性格を考える意味として大きいと思えるのです。

 縄文中期以前に関しては、
単に集落から離れて暮らす少数居住地、または一時的な居住地、という可能性も考えられます。
 しかし、
弥生以降はどうであろうか??

 当遺跡では、弥生住居が一軒のみ検出されています(住居跡については後述)。
そこから出土した土器は、おおよそ下伊那を中心として分布する土器形式と思われます(その形式は明記されていない)。
 形が把握できる物は壺と深鉢であり、焼成は良好であると記録されています。

 また、平安時代の遺物には灰釉陶器(神社仏閣に有ることが多い)が有り、
中世以降の遺物には青磁等が有ります。。

 要するに、
弥生以降(中世まで)、遺構は貧弱だが遺物は良品、といえます。
 これが意味するところは、縄文後期以降、この場所は引き続き(断続的ではあるが)祭祀場であり続けたと私は考えます。

 弥生中期末、平安、室町期、と、
時代の節目ごとにこの祭祀場は思い出され、そして崇敬された。それは高鳥谷神社として今に至る。
私はそのように考えます。。

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 遺物について・土偶・石器

 土器以外の遺物についてもふれておきたい。
縄文後期に関していうならば、土器同様、石器類も豊富です。
 また、
当然のごとく土偶も出土しています。


 土偶について、
加曽利B式注口土器が出土した遺構から、仮面付土偶も出土している(配石群周囲から散在して出土)。時期的に見て、茅野市「中ッ原遺跡」で出土した「国宝・仮面の女神」と
近いというところが興味深い。

 他に土製遺物としては、土製円版の出土があります。


 石器について、
特記事項のみ列記します。
・大型の打製石斧が多い(中・小型のものと比して)。
ただし、石鏃・石錘の出土に比べて、石斧(打製・磨製共に)の出土は少ない。
・石鏃、石錘が非常に多く、磨製石斧もセットで出土する。
*石錘は漁業具であり、山間部のこの場所から多数出土した事実は少々悩ましい。
あるいは、ここは沿岸部から入植した人々が造った祭祀場であろうか。
やはり、先述した下北原遺跡との関係が、これに関わるとも思える

・祭祀系要素の強い石製品として、
人為的に壊された石棒が出土している。


 その他石器について、
石剣、石槍、ピエスエスキーユ(ほぼ四角形の破片)、
スクレーパー(物を削る石器)、黒曜石破片、チャート破片、等が出土している。


 石器の材質について、
当遺跡で気になった物は、チャート製の石鏃の存在(少数ではあるが)。
石鏃にチャートを使う例は、信州では珍しい(殆どが黒曜石)。
 愛知県では旧石器時代からチャート製石器が圧倒的多数を占めるらしいが、
その方面の影響であろうか。
 その他、
特に信州の他の縄文遺跡と比較して、石器の材質について特記するほどの例は無い。
黒曜石製石器が圧倒的多数を占めるのも同様である。
*伊那市の三峰川上流域はチャートを産出するらしいが、
この時代にそれが利用されていたのかは分らない

 遺物については以上となります。

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 縄文から弥生へ

 当遺跡で一軒のみ確認された弥生住居、
調査報告書には「半竪穴式住居」と記されています。

 半竪穴?
見慣れない名称ですね。
それは傾斜地に構築され、掘り込み全体が浅く、一部壁が無いことから、
この名称が付けられたそうです。

 記録から察するに、
この半竪穴式と称された住居は、
ここでまともに生活しようとした人が造ったものとは思えません。
 つまり、
高鳥谷山を拝する祭祀のために設けられた仮設住居ではないかと思うのです。


 上記遺構と類似すると思われるものに(同時代)、諏訪郡下諏訪町の「秋葉山遺跡」があります。
これも平地集落から離れた高地に2軒の住居址が確認されたのみであり、当遺跡で確認された住居址と同様に、傾斜地に構築されています。
 やはりそれらも、床面・壁・柱穴などが明確ではない部分があります。
しかし、土器はそれなりに出土しており(破片が多いが)、何度も大火を焚いた跡(焼石炉)が確認されています。

 秋葉山遺跡(下諏訪町)もまた、
なんらかの祭祀行為が行われた場所ではないかと私は考えています。
 あるいは、野ダタラが行われていた可能性などもありうるのではないかとも考えています。
その時代は当遺跡の半竪穴住居と同時代(弥生後期)であり、
出土した土器は東・北信系(箱清水式)のものです。


 ちなみに、秋葉山遺跡は諏訪大社下社春宮から至近距離に位置します。
現在は水月公園(墓地と桜名所)となっており、遺跡を偲ぶようなものは一切ありません。

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 弥生の一幕を想像する
*この項は多分に私の想像が入りますことをご理解くださいませ。

 さて、当遺跡の半竪穴式住居という遺構について重要だと思えることは、東伊那地区で明確に確認できる本格的弥生文化出現の第一歩であるということです(私見であるが)。

 その第一歩は、高鳥谷山への畏敬から始まっていると私は考えています。
その弥生人は、そこがかつて大祭祀場であったという情報を持っていたはずです。
 その情報は、縄文以来の住人達が語り継いできたものでしょう。
そして、そこで崇敬された縄文以来の古層の神に、新たな神(弥生人の)が上書きされた。
そのように思うのです。

 やがて、縄文系信仰を弥生化させた集団は、
その神威を持って優位に立ち振る舞い、東伊那地区に大集落を形成していったと、そのように私は考えています。


 では、その集団とはどのような人達であったのか?
最初に信州に弥生文化をもたらした条痕文土器文化人とは異なると思います。

 あくまでも私見ですが、
条痕文土器を使用した集団は、生粋の弥生人(渡来系)ではなく、弥生化した縄文人ではないか、と思うのです。

 東海以西で弥生文化に接触した縄文人は、弥生式土器に縄文以来の条痕文を刻んだ。
そのような人々が、弥生中期以降、東海地方から伊那谷を北上してきた。

 そして、条痕文土器集団に混じって、少数ではあるが渡来系弥生人も伊那谷に現れた。
その人達のルーツは中国の呉越であり、縄文以来の日本人から見れば、その風貌や風習は異形であったことでしょう。{参考・竜と兎のハーモニー「タグ河童」}

 信州で圧倒的多数であったと思われる縄文系弥生人達は、その異形集団を「河童」と称した。
*信州入りする相当前から、そのように呼称されていたとも思われる

 ただ、河童達は、大陸由来の進んだ文化も持ち合わせていた。
それゆえに尊敬もされ、時を経て、駒ヶ根や諏訪の河童伝説にもあるような医学知識を伝授した等の伝説が語られる。


 諏訪では、縄文系弥生人の他に、
日本海経由で進出してきた弥生人達も居たと思われる(栗林式系文化人)。
 この集団は呉越由来の人達も存在したが、すでに脱河童化していた。
出雲で海童と呼称されたのはこの人達ではないか

 やがて東伊那の河童達は、
諏訪と伊那谷とを行き来する天竜川水運で活躍する。


 以上のような弥生時代の一幕を、想像してみた次第でございます。
想像ついでにいわせていただきますと、縄文と弥生の間に断絶は無い!
それを強く思う今日この頃でございます。

{*条痕文といわれる土器模様は、古くは縄文時代早期に遡る。しかし、それ以後、
明確に継続してその模様が採用された形跡がみられない。
縄文後期には、九州で条痕文を施した土器が現れ、晩期には、突帯文土器と一緒に
東海地方に伝播したと考えられる(水神平式等)。
弥生初期の土器(遠賀川式)も東海地方まで進出し(信州にも若干数流入している)、
やがて東海地方では、弥生式土器に条痕文が施されるようになる}


<参考>
・駒ヶ根市教育委員会発掘調査報告第20集・青木北遺跡
・大湯環状列石遺跡発掘調査報告書
・高地性弥生集落「中部高地・諏訪湖周辺」(編集・中村龍雄)
・条痕文系土器様式の研究(著・永井宏幸)
・名古屋市博物館HP「石器に使われた石」
・浅間山ジオパーク推進協議会HP「各ジオパークを代表する岩石」
・その他

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 弥生の定着・駒ヶ根から諏訪にかけて

 弥生時代中期後半、中南信に北からの波が押し寄せます。
栗林土器文化の波です。
諏訪地方はこの土器様式の影響を受けた土器ににほぼ統一され、上伊那北部までは栗林式影響圏として理解されています(駒ヶ根は含まれない)。
 この時期、
岡谷市に大量の玉類が埋納されています(天王垣外遺跡)。

 栗林式土器は北陸の「小松式土器」の影響を強く受けて成立した土器様式であり、その時代、小松式土器その物も信州には多く持ち込まれています(北信を中心に)。

 栗林式の影響圏と理解される南限は上伊那ですが、下伊那でも若干の流入は確認されています。
特筆すべきこととして、栗林式文化に特徴的な石剣が、下伊那の飯田市で出土しています。

 上記「石剣」ですが、
これと同類で最も大型の物が、諏訪市「ミシャグチ平遺跡」で出土しています。
 しかも、
これだけは黒い石で作られており、完形で発見されました。
 その場所は「足長神社」の側であり、
足長神社は諏訪信仰における最重要とさえ思える神社です。
 

 やがて、弥生時代中期末、諏訪の土器に下伊那の影響が見られ始め、
この時期に青木北遺跡に半竪穴住居が造られます(当記事本文)

 そして、弥生時代後期、
諏訪地方は北信系と南信系と二つの土器様式分布圏に分かれます。
 この南信系とした土器様式が、東伊那地区が繁栄した時期の、
その地区とほぼ同類の土器様式です。

 弥生後期、諏訪地方で南信系土器が分布するのは、
岡谷市と諏訪市西南部、ほぼ諏訪湖南岸地区といえます。
 これとは逆に北信系の影響を受け続けたのが、
下諏訪町(一部)・諏訪市東部・茅野市。
 この分布を見れば、諏訪大社が鎮座する位置(上社・下社、共に)や足長神社が鎮座する位置など、それらは弥生中期後半から後期まで、継続して北信影響圏であったといえます。

 また、習焼神社や有賀千鹿頭神社など、大社重要摂末社の中には南信系土器分布圏に鎮座する社もあり、それらに伊那谷と同類(と解釈できる)の伝承が存在することは興味深い。

 ちなみに、東伊那地区と似た「河童伝説」が伝わる諏訪市四賀の赤沼地区だが、
足長神社から至近距離ではあるが、足長神社が鎮座する位置から川を挟んでいる。
つまりそれは、諏訪湖南岸地区に含まれるのかもしれない

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 以上、
長野県駒ヶ根市、青木北遺跡と東伊那遺跡群でした
 

*2020年7月19日「蘇竜聖園」に掲載。