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 2022年10月中旬某日、AM7:00頃の田和山頂部。。
期待してた大山の姿は見れませんでしたが、
天子のはしごが快く私達の出雲入りを迎えてくれたように感じられました

 
 昨晩に諏訪を出発して、
夜中の高速道路をひたすら走り(勿論車で)、
早朝に島根県に入り、最初に立ち寄ったのが田和山でした。。
田和山遺跡の前にすぐ近くの乃木二子塚古墳に立ち寄った


 田和山遺跡
ご存知の方も多いかと思いますが、出雲を代表する弥生遺跡の一つです。。

 どんな遺跡かといいますと、
簡単にいえば弥生時代の城郭みたいな遺構です。
 ただその実態は・・・


 とにかく、この遺跡を抜きに古代出雲は語れない
それほど重要な遺跡です(あくまでも個人的主観とご理解くださいませ)。。


 とりあえずは整備された田和山遺跡の姿をご覧になってくださいませ

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 西側入口から
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 駐車場と直結する西側入口から、
遺跡内にお邪魔させていただきました
下図で現在地と記された場所が上の写真の場所です。。
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 先ずは西側住居部を訪ねてみますよ。。
下図の茶丸で囲んだ部分が目的地・黒線が歩行ルート
この先各項目ごとにこのような図を掲載いたしますので、
写真の位置についてご確認いただければ幸いです。。
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 それでは出発
入口からの階段は結構急です
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 何故かはりきって先を行くかみさん
楽しそうです

 右側に見える谷は土器川と呼ばれていまして、
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そこから多量の土器が見付かりました。。
かつては湧き水が流れていたそうです。。

 
 急な階段ですが、距離はさほどではありません。。
ほどなく二軒の復元住居が見えます。。
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 そうか
かみさん何をはりきってるのかと思ったら、
ああいう復元住居とか好きなんですよね
 下からちょっと見えたし。。

 しかし・・・
竪穴式住居はだいぶ荒れています
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掘立柱建物はちょっと大きめですね。。
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この辺りが西側住居部でして、
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弥生時代中期中葉~後葉の竪穴式住居跡1棟・掘立柱建物跡5棟・斜面を平坦に加工した加工段
などが検出されています。。
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 北側の住居部と比べて数は少ないが、
大形の建物が多いのがこの西側住居部の特徴です。。
 首長層が暮らした場所?という指摘もあるようです。
中世城郭に例えるなら、山城山麓の下館みたいなものかな。。



 ちなみに、
赤字にした部分は私個人的にとても気になる点です。。
加工段田和山遺跡内では他にも数箇所確認されている)・・・、
後に(弥生後期後半)安来市の塩津丘陵遺跡群でも大規模に造成されています。。

 しかし、田和山が機能を停止(弥生中期末)してから、
塩津丘陵遺跡群が出現するまで、少なくとも半世紀以上の年月が過ぎています・・・
 この半世紀を埋めるものは??

 まぁ、おいおい考えましょうか

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 頂部へ向かう

 西側住居部から山頂に向かってまた階段を登ります
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かみさんまたはりきって先に行きます。。
景色が見たいんでしょうね

 階段を登らずに北へ行くと北側住居部に出ますが、
かみさんが上に行っちゃったのでそっちへ行きましょう。。
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 途中から左右にすごい景観
丘陵を囲む三重の環濠(堀)。。
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 上の写真は一番下の第3環濠。。
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 左側はコンクリートで補強(?)整備されており、
その先に北側住居部の復元住居が見えます。。

 歩道の左側(北側)真中の第2環濠。。
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 そして一番上の第1環濠。。
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 環濠の中に見えるのは復元つぶて石です。。

 ここで検出されたつぶて石については、
戦闘用(投石)、または儀式用とか、異なる見解が出されているようです。
 確かに、類似する高地性集落や環濠集落は戦闘を想定したものが多いですから、
これについても戦闘用(実際に戦いがあった?)と考えられなくもないと思えます。


 ところで、この環濠は最初から三重だったわけではなく、
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最初は(弥生時代前期末)は一番上の環濠だけが掘られていたいたようですが、
それも全周はしていなかったようです
 全周していませんから、一般的な環濠とは異なる性格ですね。
単に区画を分ける意味合いとか、この段階では戦闘的要素は無い様に思われます。

 その後、弥生時代中期中葉になってから新たに二つの環濠が掘られ、
一番上の環濠も全周するように造成されました。。
 環濠を含め今見る姿は、
弥生時代中期中葉~後葉の姿が再現されています。。


 さて、ここまできたら頂上はすぐ目の前
頂上手前から来た方向を振り返ります。。
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ここから視線を少し北へとずらし、、
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宍道湖や松江市中心市街方向を遠望。。
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 遺跡も含めて凄い景観です

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 山頂
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 田和山頂部です。。
中世城郭に例えれば本丸ですね。。
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 山頂部中央には復元9本柱。。
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この9本柱が何であったのかは明確には分かっていません。
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高床式倉庫?大社造り神殿の元祖?などなどといろんな意見が出されているようですね。。

 そういえば、
塩津丘陵遺跡群(安来市)の尾根頂部は倉庫群だけがあったようですが、
ここもそれと類似する要素を考慮してみるのも有かもしれませんね

 田和山の場合、
それこそ全国の神々(現実的には各地の首長)が持参した品々を保管した場所?
なんて想像をしてみました

 しかし、この9本柱の柱穴は細く不揃いであるため、
建築物ではなく依代的なもの、という考えもあるようです。 
 また、建て替えの可能性も指摘されているようです。。


 9本柱遺構の外側にも柱列。。
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これは山頂を囲む柵の跡だといわれています。。
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柵は何回も建て直した痕跡があるようですが、
生活の痕跡はありません・・・
 そこがこの遺跡の謎の部分です

 中世の山城でも、
最高所にある本丸は有事の際のみ利用するものであって、
何事も無ければ殿様は麓の下館で暮らしていましたから、
それを考えれば田和山山頂も似たようなものかな?なんて納得できそうです。。
 しかし、弥生前期の様相を見ますと、
単純に中世山城との比較では納得できなくなります

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 重要なのは景色?
 
 山頂部の南側を見ますと、
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一段下がって狭い平坦部があります。。
これが三日月状加工段と呼ばれている遺構でして、
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弥生時代前期末に造成された遺構です。。
ここでは火を焚いた形跡が確認されており、
なんらかの儀式か祭祀が行われていたと考えられています。。
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その隣に同時代の5本柱遺構が検出されています。。
物見櫓という説があるようですが、
これも依代とする考えがあるようです。

 三日月状加工段とその隣の5本柱は、
弥生中期前葉の内には廃絶したようです


 ところで、
三日月状加工段と5本柱が造られたとき(弥生前期末)、
まだ山頂の9本柱は建てられていません
 というより、山頂には何も無かったわけですが、
それでも山頂の周りに環濠(?)を設けていますから、
山頂は神聖な場所として特別視されていたんでしょうね。。


 それにしても、
なぜこの場所がそれほどまでに神聖視されたのでしょうね??
 その答えは、やはり景観でしょうか。。
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 出雲四神奈備の一つとされる茶臼山が見えますが、
天気がよければその隣に大山(出雲国風土記による火神岳)が見えます(下の写真加工のように)。。
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 地理的にも、宍道湖と中海に挟まれた場所ですし、
水上交通を考慮しても、人・物が集まりやすい場所といえます。。
 そこにこのような丘があるのですから、
いつしか聖地として神聖視されていったでしょうね。。


 しかし・・・
そんな田和山が弥生中期末頃に突然機能を停止します・・・
 そして、
古墳時代前期の田和山2号墳が造られる頃まで、
至近距離の遺跡も含め、人が寄り付かなかったのです・・・
 
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  南側から

 三日月状加工段を見たついでに、
南側から田和山を見てみましょう。。
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 上の写真は三日月状加工段の辺りから見た東側斜面。。
遠くに見えるのは松江市市街地。図中1の場所からの展望です。。
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 三日月状加工段の脇から階段を下ります。。
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目の前の建物群は松江市立病院(田和山遺跡東側一帯に敷地を持つ)に付属した建物です。。
 
 下の写真は図中2の場所から見た西側斜面。。
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この景観、現地で見ると結構感動します

 図中3の場所から田和山を見上げます。。
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なんだか要塞を見ているような。。

 階段を下りたら道路を渡って、
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田和山の森が在る丘の上へ登ってみます。。

 田和山の森山頂展望台(図中4)から田和山遺跡を見る。。
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この丘と田和山とは、元々はつながっていたそうでして、
道路建設のために間が削られ分断されたようです。

 視線を少し西側へ。。
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田和山の向こうに宍道湖が大きく広がります。。

 弥生時代前期以降は、
宍道湖の北側(現松江市北部)と西側(現出雲大社周辺)に大集落がありましたから、
その方面から宍道湖に船を浮かべて有力者たちが田和山に集う姿を、
この景色を見ながら想像してみました。。


 ちなみに、上二枚の写真を撮った場所は、
弥生後期に小さな前方後円墳が造られています。。
 また、出雲国風土記に記載がある式内社「野白社(ご祭神:猿田彦命・天細女命)」は、
田和山1号墳より一段下がった南側に鎮座していたらしく(現鎮座地はそれより東南に約700m)、
2段の石積基壇が確認されています。

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 北側へ

 今度は田和山の北側へ行ってみます
登ったり下りたり、ちょっと大変ですが良い運動になります
図は中ほどにあります

 そういえばかみさんは??
最初ははりきってたんですけどね、、
頂部からの景色を見たら満足して車に戻りました


 さて、さっきは素通りした頂部北側の加工段です。。
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写真だと分かりづらいですが、二段に加工されています。。
こちらは弥生中期の造成で、さっきの三日月状加工段は弥生前期末の造成です。。
 加工段の先端部分(上の写真で中央より上・ベンチと説明板がある所)ですが、
古墳時代になってから土坑墓(田和山2号墳)が造られています。。

 古墳時代の遺構の話が出たついでに、
田和山周辺の古墳についてはこちらの記事をご覧になってくださいませ


 田和山2号墳の場所から北東方向を見ますと、
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尾根の下部は北側住居部が広がっていた場所であり、
その向こうに友田遺跡地が見えます。。

 友田遺跡は田和山が機能している頃から停止直後の間に造られた墳丘墓群ですが、
現状は、標柱がある以外は林と駐車場です。
後で簡単な詳細を書かせていただきますね。。

 同じ場所から北西方向に視線を移せば、
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真下には北側住居部の復元住居、正面には大きな宍道湖の姿。。

 あの復元住居にも行ってみましょう。。
といっても、頂部北側加工段から一直線に下りることはできません
 また、
頂部北側加工段東側の階段を下りていくことも出来ますが(下写真・下図中撮影箇所1)、
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この歩道から北側復元住居へ行くにはかなりの遠回りになります(北側出入口へ続く)。
 ですので、
一旦最初に歩いた西側住居部に戻りまして、
そこから北へ向かう歩道を行きます。。
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 というわけで、北側住居部復元土屋根竪穴住居です。。
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 田和山遺跡地内において人が暮らしていたのは、
最初に見学した西側住居部とこちらの北側住居部です。
 住居数は北側の方がかなり多く、
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弥生中期のものでは、掘立柱建物11棟・竪穴式住居8棟が検出さています。
加工段も数箇所確認されいるようです。。
 またまた中世城郭に例えるなら、
ここは城下の上級家臣の屋敷群といったところかな。。

 検出された住居跡の中には、焼失住居跡もあったようです。
また、古墳時代前期の竪穴式住居3棟も検出されています。
 
 弥生中期の竪穴式住居の床面は丸、古墳時代前期の竪穴式住居の床面は四角、
時代による住居の特徴がよく表されていますね。。
 

 さて、北側住居部から田和山頂部を見上げます。。
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おっ、、こうして見ると頂部北側の二段の加工段がよく分かりますよ。。
 こんな感じです。。
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左側に見える建物は松江市民病院です。


 はい、田和山遺跡を一通り見学しましたので、
また西側住居部を通って駐車場へと戻ります
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 山頂を環濠で囲んだ弥生遺構、
類似する遺構は他にもありますが、この遺跡の最大の特徴は、
環濠の内側には人が暮らした痕跡が無いことです。
 だから、
いったい何を守るための環濠なのか?
これが最大の疑問点として残り続けていますが、その答えの一つは、
そこが出雲の人たちにとって重要な景観を拝するための聖地であったということでしょう。


 まぁ、難しい話は抜きにしても、
この景観は壮観です

 考古学に興味の無いかみさんも喜んでくれたので、
なかなか良い思い出となりました

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 遺跡の詳細
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 田和山遺跡の詳細を簡単にまとめます。
尚、以下文中の「転載画像」と表記された画像は、
全て「田和山遺跡・2001年3月・島根県松江市教育委員会」より転載させていただいた画像です。

*遺跡の年代と特徴:弥生時代前期後半~中期後半の環濠集落(高地性)と理解される遺構であるが、
全期を通して環濠内に生活の痕跡が無いことを最大の特徴とする。
 弥生前期後半に山頂(約10m×約30m)を囲む環濠が掘られるが、
第一環濠のみであり全周しない。また、山頂の施設なども造られていない。
 弥生中期中葉~後葉にかけて、第一環濠より下部に2本の環濠が掘られ、
山頂を三重の環濠が取り巻く形となり、山頂部は柵で囲まれ、現在復元されている姿となる。
 弥生後期の遺物は全く検出されず
機能を停止した弥生中期末以降は古墳時代に入るまで人が寄り付かなかったと推測できる。
古墳時代前期に、北側住居部に3軒の竪穴式住居と、山頂北側に一基の土坑墓が造られている。
*遺跡の位置:松江市中心街より南へ約3km、
標高46m(比高差約30m)の小高い丘を中心に山麓斜面に広がり、北に宍道湖や島根半島、
東に茶臼山や大山を望む。


<弥生時代前期後半~中期前葉の田和山>
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*遺構:第一環濠が掘られるが、上図(茶色部分)のとおり全周しない(尾根筋で途切れる)。
山頂部南側に三日月状の加工段が造成され、その隣に5本柱の建造物(?)が建てられる。
この時期の遺構・遺物は南側に集中する。
 尚、三日月状加工段と5本柱は中期中葉には廃絶する。
*遺物:土器、つぶて石、等。
この時期のつぶて石は田和山丘陵産の玄武岩が用いられている。
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転載画像:田和山遺跡出土・弥生前期の土器


<弥生中期中葉~弥生中期後葉の田和山>
*遺構概要:中期初頭以前とは様相が一変し、防御色が強くなる
この時期に山頂を囲む環濠は3重となり、山頂部は柵で囲まれ、9本柱の建造物も造られる。
また、西側と北側の環濠外に住居が造られる。山頂部に住居が造られない点は変わらない。
*環濠:第1環濠(内側)はこの時期に全周し、上幅3.5m~5m・深さ約1m・長さ約200m、
断面は逆台形を成す。中期後半までに二度ほど掘り直されている。
 第2環濠(真中)は、上幅3m~7m・深さ約1.5m・長さ約226m、
断面はV字形を成す。
 第3環濠(外側)は、上幅3.5m~4m・深さ1.8m・長さ約275m、
断面はV字形を成す。東南部27.5m区間は掘られていない可能性がある(つまり全周していない)。
 各環濠の間では土塁状の高まりも確認されている。
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転載画像:弥生中期後半の田和山遺跡平面図
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転載画像:田和山遺跡断面図

*住居跡等:斜面環濠外北側・西側に偏在し、特に北側に集中する。
西側の住居は北側に比べて数は少ないが大形である。
 住居跡等の内訳は、
竪穴式円形住居跡11軒・掘立柱建物跡16軒・加工段14箇所。
北側では焼失住居跡も確認されている。
*山頂部の遺構:東西約10m・南北約30mの山頂部は、柵で覆われる。
北側中央に9本柱建造物、その他性格不明な柱穴多数、北側東寄りに二段の加工段、
などが検出されている。
 9本柱については、高床式倉庫・1本の柱を8本の柱で囲んだ依代など、
異なる見解が示されているが、結論は出ていない。
 山頂を囲む柵は、何度も建て替られた痕跡が残る。
*遺物:銅剣形石剣1点(第1環濠内)、土玉14個(第1環濠内)、
分銅形土製品2点(第3環濠内・西の谷部)、鉄剣形石剣6片(環濠内・環濠外斜面)、
石戈1点(西の谷部)、環状石斧5片(第1環濠内・環濠外斜面)、
石鏃182個以上(殆どが第1環濠内)、つぶて石3000個以上、
土器多数(壺・甕・高坏・台形・蓋・ミニチュア土器など)、石斧29点(第1環濠・環濠外住居)、
石包丁14点・大型石包丁6点・砥石23点・石板状石製品2点、
石鏃原石・楔形石器・ハンマーストーン(住宅跡内外)。
土器・石鏃・つぶて石の数は、中期前半以前も含む
*遺物の特徴等:土器は瀬戸内沿岸西部の影響が強いものが含まれる
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転載画像:田和山遺跡出土弥生中期土器) 
 
 つぶて石は、
この時期の物は忌部川流域の川原石を用いている。
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転載画像:田和山遺跡出土遺物

 石板状石製品は、
朝鮮民主主義共和国平壌市にある楽浪郡時代の墳墓から出土した物と類似しているという指摘あり。
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転載画像:田和山遺跡出土石板状石製品
 
 環状石斧は、
戦闘用指揮棒と解釈されている。。
 石鏃の原料は、
約6割が香川県のサヌカイト製・約4割が隠岐島の黒曜石製。
 鉄剣形石剣は、
モデルとなる鉄剣自体が当時は稀であり、それを模した当製品のような例も稀である。
 銅剣形石剣は、
残存長10cm・復元長約40cm。
荒神谷遺跡から出土したような中細形銅剣を真似て作られており、
良質の黒色貢岩で作られた、よく研磨された優品である。
石材は、滋賀県北部産出の高島石ではないか、という意見が出されている。
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転載画像:田和山遺跡出土石器類

 なお、鉄剣や銅剣を模した石製品は出土しているが、
鉄剣や青銅器そのものは出土していない
*その他:田和山の機能は弥生中期末に停止するが、それと同時期に、
荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡に大量の銅器が埋納されたと考えられている。


<弥生時代後期の田和山>
 弥生中期末に機能を停止した後の田和山には、後期の遺物が全く出土しないことから、
古墳時代に入るまで人は寄り付かなかったと考えられる。
 田和山の機能停止の直後(弥生後期前半)、
北東の友田遺跡において、四隅突出型墳丘墓が一基造られている。


<古墳時代以降の田和山>
 弥生後期の空白が過ぎ、古墳時時代に入ると、
北側住居部に3軒の方形竪穴式住居が造られ、山頂北側に土坑墓一基が造られている。
これらは弥生期の田和山に関わった集団とは直接的関係はないものと推測される。
 その後、創始年代は定かではないが、
丘陵南側に出雲国風土記に記載がある式内社「野白社」が建てられ、
二段の方形石積基壇が確認されている。

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 田和山周辺の弥生遺跡について
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 田和山遺跡の至近距離において、同時期(弥生前期・中期)の遺跡がいくつか確認されているが、
大規模集落は検出されていない。
 田和山が機能を停止した後の弥生後期については、
北・北西の二ツ縄手遺跡・矢田遺跡・門田遺跡で土器が、西の福富Ⅰ遺跡で住居跡5軒が、
北東の友田遺跡で四隅突出型墳丘墓1基が、それぞれ確認されているにすぎない。


<友田遺跡について>
 田和山機能時と同年代を中心とする墳墓群として、
友田遺跡についてまとめます。
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*遺構概要:土坑墓26基・方形貼石墓6基・四隅突出型墳丘墓1基からなる。
*土坑墓群:弥生前期後半~中期に造られたものである。
 土坑墓の形態や副葬品には大きな差が認められ、
配石・標石を伴う墓には多量の玉類が副葬されていたものもある。
*方形貼石墓群:四隅突出型墳丘墓出現前から山陰(山陽北部も含む)で造られていた墳丘墓であり、友田では弥生中期中葉~後葉に造られた計6基が確認されている。
これらは溝を共有して東西に並ぶ3基が南北に並んで配置されている。
また、土坑墓群とは場所を異にしてお互いを壊すことはなかった。
 規模は、長辺が11m前後~13m前後・短辺が6m前後~9m前後・高さ1m内外、
全て長方形である。
 遺物は、1号墓に勾玉2個が副葬されていた他は、これといって目立ったものはない。
むしろ一部の土坑墓から出土した遺物の方が豪華である。
*四隅突出型墳丘墓:上記墳墓群はその時期を田和山機能時と同じくするが、
この墳丘墓のみ田和山機能停止後に造られている(弥生後期初頭)。
 また、貼石墓群と土坑墓群はお互いを壊すことは無かったが、
この墳墓のみ、土坑墓12基の配置を無視して造られている(類似例が他所でも見られる)。
 規模は辺約11mほどで、墳丘南半分と主体部が欠損していたためそれ以上のことは分からない。
突出部は出現期のものらしくさほど発達していないが、立石の痕跡はあるらしく、
出雲市の青木4号墓(中期後葉)よりは若干進化したものと考えられる。
*その他:遺物の傾向として、中期以降は山陽地方の影響が強い土器が目立つ。

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 田和山の後・類似遺構は・・・

 田和山遺跡と類似した遺構というのは、その形状だけなら意外に類例があります。
ただし、それは日本海側に偏在します。
 ここでいう類似遺構とは、
丘陵頂部を環濠で囲んだ遺構のことをいっています。


 田和山と同時期には、丹後(京都府北部)の「扇谷遺跡」が在り、
これは田和山と同程度の比高(30~40m)の丘陵頂部を二重の環濠で囲んでいます。
 時期も田和山と同じく弥生前期後半に始まりますが、
廃絶時期は早く、弥生中期初頭には終わります。
 つまり、この遺跡の機能が終わった後、田和山は造成を拡大させているわけです。
この事象は少し暗示的ですが、両遺跡の関わりについては明確ではありません。
 扇谷も環濠内部の遺構は明らかではありませんが、
環濠内からは豊富な鉄器・玉類・ガラス製品などが出土しています。


 その他は全て田和山が機能を停止した後の遺構であり、
全て弥生後期前半に始まっています。
 その例としては、
伯耆(鳥取県西部)西部の「尾高浅山遺跡」・妻木晩田遺跡内「洞ノ原区東側」
・福井県鯖江市「弁財天山遺跡」、等があります。
 これらはいずれも環濠内に住居跡があります。

 上記の伯耆の2遺跡に関しては、
至近距離に同時期の四隅突出型墳丘墓も造られています。
妻木晩田遺跡は国内最大級の弥生集落として著名です。

 このような事象と他の遺跡のあり方なども合わせて見ますと、
弥生後期前半の出雲の中心は、むしろ伯耆にあったのではないか?という印象を受けます。
 伯耆といっても律令時代の国名ですから、
弥生期には明確に範囲が決まっていたわけではないでしょうし、
国引き神話の内容から考慮すれば、かつての出雲の東端は、
小さく見ても伯耆西部(大山周辺)辺りであったであろうことが推測可能です。。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 黒色石剣

 最後に少し思うところを書かせていただきます。。

 田和山が始まった弥生前期後半から機能が拡大する中期後半までの間、
出雲で大きな集落は現松江市北部(特に佐太神社周辺)と現出雲大社周辺区域とに二分されます。
 弥生前期には両区域に配石墓が出現し、
友田遺跡の土坑墓などはその系譜を引くものと私には思えます。
 その後に現れる貼石墳丘墓は、
それがさらに墳丘墓という形を採用して発展したものでしょうか。
田和山の機能が拡大する時期にそれが出現するという事実は興味深いと思います。

 よく、出雲には東西二大勢力が存在したといわれますが、
もしそうだとすればそれは弥生前期にはすでに表れており、
二大勢力の共通の祭りの場として田和山は始まったのではないか、と思うのです。
 つまり、田和山の始まりは、
出雲統一政権の始まりであるのかもしれません
 といいましても、
遺跡の有り方から察するに、二大勢力を解消して一つにまとめたとは思えず、
統一政権というよりは連合政権の誕生というべきかもしれません。
 ですから、
田和山の始まりは出雲東西連合政権の象徴というべきかもしれませんね。

 そして、四隅突出型墳丘墓の出現は、その当初は新たな勢力の台等が推測され、
その勢力によって一旦は出雲連合政権は崩壊したのではないかと?あるいは東に移動した)、
そのようにも感じられました。一旦はです(弥生後期後半に復活する?)


 戦いがあったのかどうか?
そこはなんともいえないような・・・
 ただ、少なくても弥生中期後半は、
軍事的緊張状態にあったことは確かでしょうね。
 その結末として田和山の機能停止があり、
荒神谷や加茂岩倉の銅器一括埋納、そして、以下に記す後期の東への移動があったのでないかと、
私は思います


 さて、田和山が機能を拡大させた弥生中期中葉辺りから、
山陰東部から北陸への人・物の移動が活発化し、
その強い影響を受けた北陸系土器(小松式)はやがて信州に大量流入し、
信州では小松式の影響を受けた「栗林式土器」が誕生し、
やがて信州弥生人は広範囲に栗林式土器分布圏を拡大させます。
 ここまでは弥生中期後半までの出来事です。

 信州における栗林式土器誕生までのいきさつには、
間接的に山陰東部(特に丹後)が関わっていますが、
山陰西部(つまり出雲)の影響というものは直接的には見えてはきません。
 しかし、一点田和山から気になる遺物が出土しています。。

田和山石剣
転載画像:田和山遺跡出土・黒色銅剣形石剣

 気になる物といいますのが上の画像にある石剣ですが、
黒い石で作られ見事に研磨された一品です。。

 信州を中心に栗林式分布圏でも武器形青銅器を模した石製品がよく出土するのですが、
それ自体は同時代のあり方として特筆すべきことではありません。
 しかし、そうした栗林式分布圏の石剣の中で最終段階の物が諏訪で出土しており、
それは中でも最も大形であり、唯一黒い石で作られているのです(該当記事)。
さらに、諏訪で出土したそれは、田和山で出土した黒色石剣のちょうど半分の長さです。
 といいましても、
形としては両石剣はあまり似ていません。
同じく黒色の石材が使われているという点と、
長さがちょうど2:1であるという点を指摘させていただきました。

 いや・・・
石剣だけではなく、田和山とよく似た遺構が諏訪に存在するといったらどのように思われますか?
それは諏訪大社下社春宮から北北西に約1.5km(直線距離)の丘陵頂部、
田和山のように頂部を二重(一部三重)に囲んだ遺構でして、
中世城郭として認識されているものです。
 中世城郭として認識されてはいるものの、
その形状から中世の遺構という見解を怪しむ人もおり、
古代から山城として使用されていたという言い伝えもある遺構です。
 現地で私が最も驚いたのは、
田和山の存在理由として最も大きいであろう東側の景色(大山を望む)と
その遺構から見る東側の景色(諏訪湖越しに富士山を望む)が
あまりにも似ていいることです。
正確には、田和山の景色と美保関の景色を足したような
 これは偶然なのでしょうか・・・
 
 もし、下諏訪のその遺構が田和山と類似するものであったとしたら、
それはどの年代のどういう事情によるものだろうか?
 北陸の例がそれを示唆しているように思えます。

 少し振り返ります。
弥生中期、丹後から山陰東部の影響が北陸で顕著に現れ、間接的にその影響は信州に及びます。
 弥生後期前半、田和山が機能を停止した後、
出雲より東側の伯耆や北陸で類似遺構が現れます。ここですね。。
 弥生後期後半、伯耆では四隅切れ方形周溝墓が現れますが、
同時期に近江や信州佐久平でも現れます。
この間辺り、山陰東部影響圏が出雲影響圏に変化していく中ほど、
福井県鯖江市の弁天山遺跡の少し後くらいの後期中葉辺りが妥当ではないかと思うのです。

 その事情としては、
やはり弥生後期の出雲文化圏の北陸以東への拡大の一端という解釈でしょうか。
信州である程度それがうかがえるのは佐久平のみですが(この年代では)、
弥生後期の諏訪地区は佐久平の影響が大きいですから(ほぼ支配圏ではないか?とも思える)、
天竜川水系から千曲川水系への交通路を守護する名目か?
あるいはその周囲に滞在する鉄資源確保のための遺構か?(春宮北側一帯は鉄鉱脈が滞在する)、
そんな事情が考えられるのではないでしょうか。。
 この至近距離で猛烈な火を焚いた痕跡が残る弥生後期の高地性小集落が検出されていますが、
その遺構(秋葉山遺跡)と田和山類似遺構(上の城)とは、
連動していたのではないかと想像しています。
 そして、あの景観を意識して造られた遺構だとすれば、
それは当然、田和山の景色を知っている人達によるものという可能性は大きいと思えます。
 
 そういえば、
諏訪大社は上社よりも下社のほうが出雲っぽい。。


 話を戻しますが、
下諏訪のあの遺構が田和山を模したものであるなら、
あの黒色石剣も田和山と無縁ではないと、そのように思えました。。
年代は若干異なるが

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 田和山の風
IMG_1485
 かつて宍道湖から田和山に吹いた風
やがては東へと向かい、諏訪にも到達したのだろうか
 ここが全ての始まり、そのように思えました

 田和山の風、
いつまでも感じていたかった

 またいつか行けるだろうか
あの場所に立てるだろうか

 出雲はあまりにも遠い・・・

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<参考>
・田和山遺跡・2001年3月(島根県松江市教育委員会)
・田和山史跡公園再整備基本計画・令和2年3月(松江市)
・松江圏都市計画事業乃木土地区画整理事業区域内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書・1983
(松江市教育委員会)
・現地説明板
・他

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 以上、
島根県松江市の田和山遺跡でした


*当記事に掲載の写真は、
2022年10月中旬に撮影したものです。