あの山の中腹、山麓との標高差約150mの場所に、
二基の積石塚方墳が在ります。。
長野県東筑摩群筑北村、
「安坂(あざか)将軍塚」と呼ばれる古墳です。。
東筑摩群というところは、
松本平と善光寺平に挟まれた高原小盆地ですが、
なかなか面白い神社や古墳などが在る地区ですよ
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古墳へ
案内表示に従って山裾へ。。
ちなみに、上の写真左端に「安坂中村古墳」が写っていますが、
それについては別記事とさせていただきます(年代分けの都合から)。。
山裾の坂道を少し上がると、
車はここにとめられます。。
広場の端から遊歩道に入るのですが、
安坂古墳群は4基の積石塚からなると情報公開されていますが、
上3枚の写真に写るものはその4基には含まれておりません
まぁ、上へ参りましょうか。。
歩道は良く整備されており、
迷うことはないでしょう
山肌は石礫が目立ち、
積石塚の残骸が広がってるのかな??
なんて妄想をかきたてます。。
妄想はともかく、
急勾配の斜面に付けられた九十九折ですが
気持ちよく歩ける自然林の中の遊歩道です。。
散策のさいは熊除け鈴をお忘れなく
やがて上の方に説明板が見えます。。
下を見ると、、
下の広場から古墳まで、
だいたい15分前後だと思います。。
さて、いよいよ、、
これから先は古墳の姿ですよ
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古墳の姿
先ずは1号墳から。。
墳丘はだいぶ崩れており、方墳なのか円墳なのか?
見た目では分かりません。
傾斜のある山の斜面に造られていますので、
石積みが確認できる部分がすべて墳丘なのか?
崩れて流失した部分なのか?
それも明確とはいいがたい
墳丘はともかく、
露出した竪穴式石室はなかなかの見応え
西側(谷側)石室。
東側(山側)石室。
東側の石室の方が小ぶりですね。。
1号墳の側にはベンチもあり、
次に2号墳です。。
ですが、
こちらも1号墳同様に、
2号墳の石室の方が少し大きいようです。。
これは天井石かな?
背後の山の斜面は、
他にも未確認の積石塚古墳が存在したのか?
元々ガレ山なのか??
まぁ、
この様な場所だから土盛り古墳よりも積石塚の方が造りやすかった、、
とも考えられますね。。
2号墳から1号墳を見る。。
古墳の姿は以上です。。
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古墳の詳細
規模等についての詳しい記述が見当たらない・・・
現地説明板も少し間違っている・・・
というわけで、今回は、
規模等については「こちら」のサイト様を参考とさせていただきました。。
1号墳
墳形と規模:南北約10m・東西約9mの方墳。高さは不明。
年代:5世紀中葉~後半。
構造:山腹の砂岩で構築された積石塚。
主体部:南北方向を主軸とする竪穴式石室が二基並列。
両石室ともに、平板割石の小口積。
1号石室(東側)は、長さ約5m・幅約0.7m。
2号石室(西側)は、長さ約5.6m、・幅約0.7m。
遺物:剣2、鉾1、直刀1、きさげ2、砥石1、等(いずれも2号石室より)。
{遺物に関する参考資料→「坂井小学校だより」}
位置:山麓との標高差約150mの山腹に築かれている。
斜面は急勾配。
2号墳
墳形と規模:南北約15m・東西約8mの方墳。高さは不明。
年代・構造:1号墳と同じ。
主体部:1号墳と同じ造りの竪穴式石室が一基。
規模は、長さ約6.8m・幅約1m。
遺物:土師器。
位置:1号墳より約6m上方に在る。
その他:墳丘・石室ともに1号墳より大きい。
安坂古墳群
1号墳と2号墳の他、山麓の「中村古墳」と「3号墳」をあわせ、
計4基で安坂古墳群と呼ばれている。
また、
1号墳と2号墳は将軍塚とも呼ばれている。
<参考>
・現地説明板
・坂井小学校だより
・他
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後書き
この地区は松本方面との関わりが強いので、
当ブログの地区割りでも「松本地区」に含めましたが、
目の前の峠を越えればすぐに東北信に出れる場所でもあり、
当記事の古墳などはその方面の影響が強いものと思われます。。 さて、積石塚といえば渡来系の墳墓であるという見解をちらほらと見かけます。。
それを否定するつもりはありませんが・・・
ちょっとお待ちを
確かに、安坂を含め、
北信の積石塚でも朝鮮半島系の遺物は出土しています。
ですから、少なくともその方面とのお付き合いがあったことは推測可能です。。
また、
安坂や杉山古墳群(千曲市)などは、信州の積石塚の中でも数少ない方墳ですから、
方形積石塚が主流の高句麗との関係を推察される方々もいらっしゃることでしょう。。
しかし、
主体部をよくご覧になってくださいませ。。
森将軍塚以降、引き継がれていったのだろうか?
と思えるような平石(又は割石)の小口積。
安坂2号墳の墳丘なんかは、
森将軍塚の主体部(下写真)とほぼ同規模・同寸法。。
さらに遡れば、
大和の「黒塚古墳」、出雲の「神原神社古墳」等とも共通する(主体部に関して)。。
神原神社古墳は方墳ですね。。
本文中でも書いたとおり、
周囲の様相から、土盛の墳丘よりも積石の方が容易であった、
という理由も考えられます。。
これは杉山古墳群にもいえることです。
信州には半島系渡来人の末裔だという一族も存在していましたから、
そういった一族と積石塚とを関連付ける考えもあるようです。
しかし、
そうした一族は何時ごろから信州で暮らしていたのだろうか?
信州で積石塚古墳が造られ始めた頃よりもずっと後の時代ではないのか?
まぁ、
一つの考え方として解釈していただけたら幸いです
繰り返しますが、
渡来系墳墓説を否定しているわけではありませんよ。。
以上、
長野県東筑摩郡筑北村の、
「安坂将軍塚」でした。。
3号墳と中村古墳については別記事で。。
*当記事に掲載の写真は、
2021年10月に撮影したものです。。
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